堤猛雄のあの時こんなこと

堤猛雄がこれまでに経験したあれこれを大公開

八百屋の跡継ぎから不動産業へ

実家の家業は青果業でした。大きな店舗で当時2トントラックに満杯の野菜を売り切っていました。父親が豪快な男で、セリをする大同青果でも一目置かれていました。しかし私が家業を継ぐが考える時期には時代の変化を感じており、今のままの青果業ではダメなんじゃないかと思っていました。当時18歳の私がふと本屋で見たのが、田中角栄著の”日本列島改造論”とダイエー創業者である中内功と宅建の本。ここから時代の変革と小売業これから、そして不動産業に興味を持ちました。

家業を継がないと言ったら勘当されます。まずは宅建の免許を取りました。当時19歳、学もない私は人生の中で初めて猛勉強、六法全書の宅建業法をひたすら覚え50点満点の48点で無事合格!

勘当覚悟で家を出たため、不動産会社も寮が付いていて一番厳しいと言われた大蔵住宅に入社。はじめてネクタイ、スーツを着てはじめて営業職を経験しました。

私は24歳までに独立することを目標に定め、どうしたらそれまでに開業が出来るのかを考ました。数社を渡り歩き販売から開発、企業誘致、リフォームなど不動産に関すること多くを実践で学んできました。

もちろん遊びも全力投球!楽しかったなぁ。しかしバブルに対してはどこか冷めた目で見ていました。こんなこといつまでも続かないと。

税務署がやってきたら社員に持ち逃げされていた

予定通り平成2年4月21日に堤エステートを創業しました。時はバブル末期、最後の狂乱の時期に大いに稼ぎました。しかしバブルをおかしいと感じていたので仲介に徹していました。そのおかげでバブルの影響は最小限でしたが、派手にしていた不動産業の先輩方の多くは消えていったのです。

その頃の堤エステートは、代表である私と経理は男性社員、そして事務員を雇っていました。私がバリバリ営業して事務や経理などは任せていました。昔から数字には強かったのですが、信用していたし資金もあったため、あまり経理を見ていませんでした。今思うと経営者としては失格です。

バブルが弾け、経理をまかせていた人間も姿を消し、そんな時に税務署が入ります。頼んでいた税理士のフォローも全くないまま、約1ヶ月の税務調査から大きな代償を払わさられる事となりました。

私は経理を見ていなかったので、よく分からないことばかりでした。何よりも信頼していた人間から裏切られたことと、経営をしておきながら経理を分かっていなかったことにショックを受けました。自分を一番呪ったものです。

税務署の調査は時間も掛かり、課税も来ましたが無事処理できました。一人残った私は人を信用できなくなり長い間、必要な時、必要な分だけ仕事を淡々とこなす日々が続きました。

この時に経験が、経営をするなら経理を把握して税金についても勉強が必要と強く感じました。そして今の経営の礎となっています

雷に打たれたスペインの旅

2000年(正確には1999年の年越し)に初めてスペイン旅行をした時、唯一製作中でありながら世界遺産に登録されたサグラダ・ファミリアを見てその雄大な姿と、建築家であるアントニオ・ガウディの崇高な意思に深く感銘受けました。

サグラダ・ファミリアは現在もなお、ガウディの遺志を引き継ぐ建築家や職人の情熱よって建築が引き継がれており、未だ完成をみないその姿を目の当たりにしました。

建築現場の雰囲気はゆるく、資材や材料などが無造作に置かれ、昼休みとなれば長い時間作業は止まっていました。しかし武骨な表情を見せるサグラダ・ファミリアはとても魅力的でした。

現在のサグラダ・ファミリアは建築がずいぶん進み、とても立派になりました。先日聞いた話だと、見学をするためにチケットを手に入れるのも当日なんてとても無理、入場制限もあり中に入るのも大変なんだそうです。

しかしこの時は、チケットも簡単に手に入り、塔も勝手に上ることができました。塔を登っていくと突然雷に打たれたような衝撃が走りました。この時の感覚は初めての経験です。

この衝撃の後から、常々情報に対する不信感や情報操作による真のメディア不在に危機感を抱いていた事と、全世界共通のメディアとしての可能性を感じていたインターネットが結びつき「世の中にそんな会社を創りたい」という強い気持ちが生まれました。

未だにメディアを創りたいという志はありますが、サクラダ・ファミリアの塔に登り詰め時に感じた雷にも撃たれたような感覚は今でも思い出します。

その後、2004年に再びサグラダ・ファミリアを訪れ現在のガウディの後継者:外尾悦郎氏にもお会いすることができ、その深い人間性と信念をもって彫刻に取り組む心に感激をしました。その後もスペインを定期的に訪れています。

サグラダ・ファミリアの主任彫刻家である外尾悦郎氏の工房にて

スペイン旅行がなかったら、不動産業だけをやっていたかもしれません。明確な理由は分かりませんが最初に行った時のサグラダ・ファミリアで私は何かが変わったと強く感じたものです。

その後はITや金融や投資、経済分野の知識や実践をなどにも積極的に取り組んで、結果的には本業である不動産業に厚みを増せたと自負しています。

IT企業を起ち上げ上場を目指した

スペイン旅行から帰国後、2000年の堤エステート創業日に真のメディアを目指したIT企業T2eを創業しました。

広告というバイアスのかからない、真の情報を配信するビジネスモデルは現在では(まだまだ難しいですが)インターネットの発達により実現不可能ではありません。

しかしこの頃は、どんなに説明をしてもなかなか理解されませんでした。この時、堤エステートでもホームページを開設してインターネットによる会員制の競売不動産取得システムのサービスを開始しました。

そこで創業したIT企業T2eでまずは住のコンテンツとして競売情報を配信することにしました。既に東京の大手金融会社で競売情報に目を付けていたラサール出身のオタクと知り合い、彼が福岡の競売情報を必要としていたことから、情報取得の許可を得るために共に福岡地方裁判所に足を運びました。

この頃は小泉純一郎が総理になり、小泉旋風が起こり新しい時代の幕開けを感じられていました。裁判所も変化をしようという機運が感じられ、裁判所競売係にスキャンを持ち込むことが認められました。

時はITバブルの始まりで、IT関連ベンチャー企業が多く創業されました。楽天も上場したばかり、ライブドアやサイバーエージェントなども台頭してきました。創業したT2eも九州大学や福岡大学の工学部の院生の協力により、競売情報のシステムを構築しました。

私から見ると企業とは名ばかりの学生サークルの延長にも見えましたが、やっていることは確かでした。不良債権処理の傷跡が深かった当時、今後必要となる競売不動産をインターネットで取り扱うということで多くの注目を集めました。

ビジネスモデルも確立でき、特許申請など多方面にも気を配り、メディア戦略やキーパーソンとなる企業や人への売り込みやプレゼンなどを行うために東京にも足しげく通いました。アイデアのあるITベンチャー企業にとって株式上場も夢ではありませんでした。そんな時期だったのです。

その頃、福岡の個人の不動産業者である私は、東京で最先端の金融マンや投資会社の人たちと多く知り合いました。福岡とは違うスピード感でビジネスの最先端で活躍する人たちと語り合うために、必死で経済や金融について勉強をしていました。幸い不動産に関しての知識では負けていませんでした。やはり福岡とは違うビジネスの熱量の違いを感じていました。

堤エステートの会員システムにも今でもつながりのある有名大学教授や海外で活躍する金融マン、金融をしている人なら誰でも知っている情報機関の方など普通では出会えないような方が入会していただきました。

堤エステートの会員制に入会してもらうためには、まず一度事務所まで来ていただくことをルールとしていました。皆様、遠方からでも駆け付けてくれて何時間も語り合いました。インターネットの力を肌身で感じたものです。

そして株式上場が現実のものになりつつありました。条件は私が東京でこの事業を行うこと。迷いました。しかしこの時、父が倒れたのです。

父は命はとりとめましたが、介護が必要になりました。私は長男であり母親を一人にすることはできません。ちょうどその頃、ITバブルも崩壊しました。会社は順調でしたが、いろいろ問題が出てきました。その後、会社からは身を引き一旦、堤エステートの経営に集中することにしました。

それでも競売取得システムの会員制は順調でした。不良債権不動産は多く、実務は順調でしたが、私は挫折感を感じていました。そして2006年、T2eは前経営者に譲渡し完全に私の手から離れました。

裁判を経験

T2eから離れた後、ゆっくりとしたペースで仕事をしていました。不良債権処理の案件は多く、競売の調査で出会った債務者から任意売却の依頼を受けることもありました。

その中のひとつで差押物件を私が買取り、債務者に賃貸で貸していました。とても感謝されいい仕事したと思っていました。しかし数年経つと賃料が遅れがちになります。そして遂に賃料は支払われなくなったのです。

幸い定期借家契約をしていたので、数年待てば出て行かなくてはいけないのですが、それも困るので裁判をすることにしました。悪いのは賃借人で結果は明らかなので弁護士をたてずに裁判に臨みました。

最初は順調でした。裁判官も私の陳述の正当性を分かっているようでした。初めての裁判、こんな感じか。と思っていました。

しかし最終的な結果は、私が負けたのです!先方の弁護士が裁判官が私に有利に裁判を進めているところを突いてきたのです。すると急に裁判官の態度が変わるではありませんか!

正直驚きました。司法の世界を経験して、こんなことがまかり通るのか!と憤りました。最後に裁判官に言われた言葉は『高裁でまたやって下さい』でした。

今度は負けるわけにはいきません。既に賃料が滞って1年近く経っています。その間賃借人は賃料も支払わず暮らしているのかと思うと世の不条理を感じずにはいられませんでした。この時は知り合いの弁護士に依頼しました。

一番おかしいと思ったのは裁判の仕組みと裁判官によって人の人生が左右されることが、ここ裁判所で日常的に行われている事実です。最終的には高等裁判所ですぐに(と言いつつも数ヶ月も経過しますが)勝訴判決がでました。

しかし賃借人は物件に住みたいがために、なんと最高裁まで告訴したのです。もちろん結果は裁判を認められませんでしたが、最終的に2年以上も賃料を支払わずに住み続けたのです。

なかなか経験できないことですが、日本の司法もおかしいことを身をもって感じたものです。冤罪のニュースなどを見るととても怖いことです。

仲介手数料の改革宣言をした

平成20年には仲介手数料改革に取り組みました。不動産業界の聖域と言われる仲介手数料、これをやる業務に見合った内容で販売価格の3%+6万円から割り引くというものでした。

これには大きな反響がありました。お客様からは大好評!しかし業界や一部業者からは様々なクレーム(?)や嫌がらせがありました。

仲介手数料改革宣言の内容をこちらのページでご覧いただけます

『一般消費者に誤認を与える』とのことから宅建協会と公正取引協議会からは何度も呼び出され、多くの反発や圧力を受けました。私は一歩も引く気がなく、一人でこの取り組みの正当性を訴えました。

また情報サイト運営会社からも告知文言の訂正や削除などの通知があり、こちらも納得がいかないということで、かなり協議を重ねました。

昭和45年に決まった仲介手数料の仕組みを消費者に何の説明もないまま請求すること自体が、不動産業界の傲慢さを感じます。この時は徹底的に戦いました。私のブログでも一部始終を公開しています。

最終的に何も言われなくなりました。その後、多くの不動産業者が仲介手数料の割引(情報ではキャッシュバックと言わなくてはいけないとのこと。馬鹿馬鹿しい!!)を各社の工夫で打ち出してきました。

不動産業者も時代に合わせて努力をするべきです。この仲介手数料改革宣言は業界に一石を投じた取り組みと自負しております。

あらためて今までのことを振り返ると、本当に多くのことを経験してきました。まだまだ書ききれないことが多数あります。当社にお越しいただくと、あれもこれも実際にお話をさせていただきます!

関連記事一覧